2006.10.04 シャクトリムシ R4
伊予灘SAは、伊予灘と道後平野を一望のもとに見渡せる。 針葉樹の葉先に、小さなシャクトリムシがいた。 背景が道後平野、伊予灘だ。 
7月に訪れた高知県、そして今回の愛媛県でもそうだったが、こちらの人はシャクトリムシのことを、スントリムシともいうそうだ。 スントリムシ、つまり「寸取虫」ということだろう。 1尺は30.3cm、1寸は3.03cm、シャクトリムシの歩幅(頭側の脚と、お尻の方の腹脚との距離)を考慮すれば、スントリムシの方が的確な命名のようにも思える。
シャクトリムシついでに、もう一つ話を。 今回初めて訪れた松山市。 一方通行路が多いうえに、路面電車が走っていたり、私が住んでいる田舎とは違ってビルが多く周囲の様子を見渡すことができない。 しかも車も多い。 さらにはカーナビがフリーズしたりで、目的地を通り過ぎたり、道を曲がり間違えたり、同じ所をグルグル回るようなこともあった。 田舎者にはとても疲れた4日間であり、やはり私は田舎向きだなと再確認するに至った。 「シャクトリムシの堂々巡り」という言葉がある。 
植木鉢の縁などにシャクトリムシを乗せると、シャクトリムシはその縁にそってグルグルと回る。 体の構造上(移動時に、腹脚でお尻を固定し、手近な足場に頭側の脚を着く)そうなってしまうのだが、いつまでもグルグル回っていると、鳥などに見つかって食べられてしまう。 傍から見ていると「下に降りればイイのに、彼は迷っているな」と感じるが、シャクトリムシ自身は迷っているつもりはない。 それどころか「自分は大丈夫、一所懸命頑張っているんだ」と一抹の不安を感じながらも、堂々巡りに励んでいる。 
これは私達人間の姿を喩えたものだ。 往き先も分からないままに、手近なモノ〜お金や健康、地位・名誉、権力、家族・友達、趣味・娯楽・・・〜を掴むことに一所懸命で、根本的な問題に目を向けようとしていない。 根本的な問題とは、例えばゴーギャンの大作の題名『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』に示される、人類普遍の大問題であろう。 「そんなことウジウジ考えてどうなる、そんなこと考える暇があったら、しっかり稼いで、欲しい物を手に入れて、面白可笑しく過ごした方がイイじゃないか」と、かつての私はそうやって「楽しい=イイこと」と受けとめていた。 そんな生き方を、五木寛之氏は「戦後の日本が目指してきた“乾いた社会”」であり「乾いたがゆえに(いのちが)軽くなった社会」だと憂えている。 享楽的な生き方の先にあるのは、喩えようの無い孤独と不安と絶望、そして空しさだろう。 そこに一抹の不安を感じるからこそ、社会はより享楽的になっていくのかもしれない。 
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