2004.03.11 毛虫 E5000
裏の畑の椿の花。 その花弁に小さな毛虫がいた。 冬の間でも暖かい日によく見かける毛虫だ。 以前どこかのサイトでこの毛虫の解説を見た記憶があるのだが、なんせ記憶力が悪いもんで、何の幼虫だったか忘れた。
ところで、以前読んだことのある歌に「受けとめる 大地のありて 椿落つ」というのがある。 椿の花はヒラヒラと散らず、花ごとボトッと地面に落ちる。 落ちてゆく花を、そのまましっかりと受けとめてくれる大地があるので、椿は安心して花を咲かせ、そして落ちてゆけるのだろう。 さてさて、私の いのち 歩みはどうであろうか。 やがては終ってゆかねばならない“人”としての いのち。 往き先は如何なものだろう? 「死んだら終い」という感覚が蔓延しているようではあるが、「終い」に向かっての歩みほど空しいものはないだろう。 ゴールの無いマラソンを走れと言われても、馬鹿らしくてやってられなくなる。 「この世限りよ」という刹那的、享楽的な思想が、自身の、そして他者の いのち まで軽くしてしまう短絡的な思考に結びついているのではなかろうか。 霊魂とか霊界とか、そんなものは存在しないだろうが、「死んだら終い」というほど いのち の世界は単純なものではなさそうな気もする。 私が思っているよりも、いのち の世界というものは、ずっとずっと広く深く大きなものであって、この私の いのち を丸ごとそのまま受けとめてくれる大地のようなものではないかと思う。 そして大地は今現に私(花を咲かせている木)を支えてくれているんだろう。 かつて話題になった『葉っぱのフレディ』という絵本で表現されているのが、まさにそのような世界観だ。 しかしながら『葉っぱのフレディ』では、「ぼくらは、よく働いた」とか「人間に木かげを作った」とか「みんなの目を楽しませた」などのダニエルのセリフに、どことなく「イイことしたから大丈夫!」的な雰囲気があり、違和感を感じる。 だって大地は椿の花や紅葉の葉っぱに、「綺麗に色づいたから受けとめる」などと条件つけることはない。 たとえ蕾のまま風にもぎ取られても、誰の目にも触れずに色褪せていっても、全ての花や葉を受けとめてくれる。 それが自然のはたらきなのだろう。
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