2003.09.17 ツクツクホウシ E5000
いよいよセミの季節も終りが近づいてきて、庭ではツクツクホウシの鳴き声しか聞こえなくなった。 いつも書いているが、ツクツクホウシの鳴き声は、夏の終りを感じさせる。
ところで、私達は日常の会話の中で「セミの声が聞こえる」と言うが、英語にはこのような表現はないそうだ。 英語だと「I hear the voice of cicadas.」となる。 つまり主語が違うのだ。 英語だと「I」=「私」が主語となるが、日本語では「セミの声」が主語となる。 これは先日聞いた話の中で言われたことなんだが、「戦後の日本は諸外国、特にアメリカの援助によって、ここまで繁栄することができた。 その恩返しをしてゆかねばならないのだが、科学技術や工業製品を輸出していたのではダメだ。 今こそ世界に向けて、日本の文化・思想というものを広く伝えてゆかねばならない。 それが最高の恩返しになるだろう。」という話だった。 主語を「私」とする文化・思想、転じて自己主張を是とする社会では、必ず衝突が生じるだろう。 身近な所では家庭内で、大きくなれば国家間の衝突、つまり戦争へと発展する。 未だに解決しないイラク戦争にしても、アメリカとイラク、ブッシュとフセインとが、互いに正義を主張し、利権を握るために衝突したのだ。 今世界に必要なのは自己主張の思想ではなく、自己否定の立場ではなかろうか。 
「セミの声が聞こえる」という表現の中に「私」はない。 あくまでも「セミの声」〜他者を主とする思想が日本にはある。 「有り難う」という表現にしてもしかりだ。 英語には「有り難う」という表現はない。 「I thank you」は「私はあなたに感謝している」ということで、やはり「私」が主となっている。 「有り難う」というのは、他者(人だけじゃないですよ)から施された行為、あるいは現象に対して、「有ること難し」「こんなことは滅多にあるもんじゃない、いや、ありえないことだ」と最高の賛辞を述べている。 どこまでも受けた行為を「おかげさま」と賛えるのであって、「私」が感謝するとかしないとかは表現しないのだ。 悲しい哉、現在の日本人は私も含めて自己主張するのが当たり前、しなきゃ損する、くらいの感覚を持っているし、教育や行政の場に置いても、それが当然のように語られている。 何でもかんでも“積極的に”というのはどうだろうか? そこに歪みが生じる一因がありはしないだろうか? 状況によっては、消極的な姿勢の美学が語られてもイイのではなかろうか。 世界に向けて伝えてゆく云々以前に、まず私自身 我が身を省みる必要がある。
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