2002.10.18 クスサン  E5000
早朝、勝手口の側にクスサンがいた。 今月10日も掲載したように、クスサンは夜の外灯などに飛来する。 前回が全体像だったので、今回は顔のアップを撮ってみた。 こうしてみると、つぶらな瞳で、中々可愛らしいと思う。
ところで、クスサンは漢字で「楠蚕」と書く。 クリやクヌギ、コナラ、ヌルデ、カキ、ウメ、サクラ、イチョウ、エノキ等を食べるらしく、我が家でも裏の畑のクリの木でよく幼虫を見かける。 それが何故「楠」なのかは知らない。 「蚕」は「カイコ」つまり絹糸をとるカイコのことだ。 ちょっと調べてみたくらいでは詳しいことは分からなかったが、多分マユを作る ガ を意味するのではないかと想像した。 それよりも広辞苑で調べて知ったのだが、「蚕」はもともとはミミズを指す字で、カイコは正式には「」と書くそうだ。 難しいので略しているうちに「蚕」という字を使うようになったらしい。 面白いのはミミズを「蚕」つまり「天の虫」と表したことだ。 何故ミミズを「天の虫」と表現したのだろうか。 私なりに考えてみた。 かつてヒトは土に根ざした生活をしていた。 土を耕し、山や川にほんの少し手を加えて、自然の循環の中で共に生活していたと思われる。 その土台たる土の中に棲み、痩せた土を肥えた土に変えてゆく(と認識してます)ミミズは、まさに天から授かった尊い虫と受け取られてきたんだろう。 それが今ではカイコの字として使われている。 御存知のように、カイコは絹糸をとるために養殖されている。 マユとなったカイコを煮えたぎる熱湯にザザッと入れて、そして糸をとるそうだ。 ミミズとカイコ、ともに「蚕」の字で表現されるが、その中身はどうも違うようである。 ミミズの場合はヒトも自然の循環の一つで、その恩恵に対する深い感謝、畏敬の念がこめられている。 カイコの場合、ヒトは自然の循環から少し離れた視点に立っているいるように感じる。 自然、生き物は全てヒトのために天から与えられた利用すべきもの、自分達が得するためなら殺したっていいんだ、という雰囲気が感じられる。 誤解して欲しくないが、養蚕を批判しているのではない。 カイコを「天の虫」と表現することに違和感を感じるのだ。 何かそこには、利便性や経済優先という西洋合理主義的な発想を感じ、損得勘定してしまう我が身のあさましさを天に責任転嫁しているような気がする。 中国の古い本を読んでいたら次のような言葉があった。 「人間とは、カイコが自らを糸で縛りつけているようなものだ」 金だ、名誉だ、権力だ、健康だ、美貌だ、なんだかんだと様々な価値を自ら作りだして、その価値に縛られて、雁字搦めになっているのが私ということらしい。 そしてその往く先は、マユとなったカイコが熱湯の中に放り込まれるように、さしずめ地獄の釜の中に向かっているのかもしれない。 そんなことを考えながら、再びクスサンの顔を見ていたら、可愛らしく見えたその瞳が、なんだか もの悲しくこちらを見つめているように思えた。
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