2002.05.23 ヒメクロオトシブミ E5000 
裏のクヌギの若葉にはヒメクロオトシブミが集まっている。 オトシブミの習性はこれまでも何度か書いてきてるように、葉を上手に折り畳んで丸めてユリカゴを作り、その中には卵が産み付けられている。 卵から孵った幼虫は、フカフカの布団にくるまれて、しかもその布団=葉が食べ物になるという仕組みだ。 小さなヒメクロオトシブミがクヌギの葉を丸めてゆく姿はとても健気である。 私はその姿に“子にかける親の願い”を見る。 近年「いのちを大切に」とか「いのちは尊い」ということを、様々な場で見聞きするが、では何故大切なのか、何故尊いのか、という中身が語られていることは殆どない。 「人の命は地球より重い」等と、如何にも尤もらしい表現も聞くが、あれなどは人間の傲慢さを表した表現だ。 そこには、他の いのち に対する視点が決定的に欠落している。 「ひとつしかないから」「一度だけの人生だから」等の理由も聞くことはあるが、それでは尊さの意味づけにはならないだろう。 いのち は何故尊いのか? それは“願われている いのち”だから尊いのだ、と私は受けとめている。 「生まれてきてくれて有り難う」とこの世に生を受け、そして「健やかに育ってくれよ、そのための苦労は厭いませんよ、いつでもどこでも貴方のことを思ってますよ」と、大きな大きな願いをかけられている いのち だから尊いと味わえるのではなかろうか? 願ってくれる存在を何処に見出すかは、それぞれの立場で違ってくるかもしれないが、ともかくも願われてない いのち など無いはずだ。 虫の世界に目をやると、自分の何倍もある葉っぱを、ありったけの力を振り絞って「我が子のためよ」と願いをかけながらユリカゴ作りをしているオトシブミの姿に感動する。 「遺伝子にプログラムされた通りに動いているだけさ」なんて見方をする人もあるそうだが、何とも寂しいことだ。
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