2000.09.10 クロオオアリ
畑には柿の木が何本かあるのだが、既に実が熟し始めている。 最近どこに行っても熟した実をたくさん付けた柿の木をよく見かける。 話によると、昔みたいに柿をとって食べる者がいなくなったからだそうだ。 最近はスーパーに行けば、形の整った奇麗な柿がたくさん並んでいる。 いや、わざわざ柿を食べなくても、甘くてお手軽なお菓子が溢れている。 柿をもぎ、皮を剥くという手間をかけずとも、お金を払えば柿よりも甘いお菓子が簡単に手に入るのだ。 一方ではお金が無いからと、皆お金もうけに必至である。 何か釈然としない。 物質的に豊かで、便利であることは素晴らしいが、それのみを求めてゆくとどこかに歪みが生じるのではなかろうか。 
「北の国から」の作者、倉本聰さんは「ゴールの情景」というエッセイ集の中で、次のように書いておられる。
「戦後五十余年。あの敗戦に起点を置いた時、現代日本のここまでの繁栄、これほどの豊かさが果たしてあの当時我々の目指したものだったのか。
 我々はあの頃の貧しさから脱却し、まがりなりにも相応の富を得た。だが富を得るとそれでは満ち足らなくなった。「ベ−スアップ」と「前年比」という単語があたかも当然の権利のように日本人全ての常套句となり、際限なき上昇を夢見て猛進した。
 目標というものがなかった気がする。
 哲学というものが欠けていた気がする。
 ゴ−ルのないマラソンを走っていた気がする。
 我々は今、いったん立ち止まり、既にとっくに駆け抜けてしまったゴ−ルの情景を探すべきではないのか。
 便利ということと豊ということの混同を我々は余りにも犯しつつある気がする。便利ということを無限に追及し、自らの欲望に歯止めをかけることを忘れた人種を、果たして文明人と言えるのだろうか。ヒトは新しい野蛮への道を今やコツコツと歩いているのではないのか。
 
 ゴ−ルは何回もあった気がする。
 冷蔵庫を手にした時、あれもゴ−ルだった。車を手にした時、あれもゴ−ルだった。家を手に入れた時、あれもゴ−ルだった。それらの喜びそれらの満足をゴ−ルの情景として今思い出す。
 それらの時点へ今戻るということは殆ど不可能としか言えないだろう。しかし、だったら今からでも遅くない、この先のゴ−ルを決めるべきである。
 ゴ−ルなきマラソンを走るものがある日突然死を迎えるのは、子供にも判る自明の理なのだ。」
かつては大切なおやつであった柿は、誰にも食べられることもなく、カラスに突かれ、アリに食われ、そして大半は熟しきって落ちてゆく。